とにかく、漠然と「芸術」といったものに直接触れたかっただけなので、そこにあるアートの詳細は、その時点では特に必要じゃなかった。正直。
言ってしまえば、作者はどうでもよくて、バンッと自分のその目の前のインパクトや繊細な作品がそこにあれば良かった。
音楽もそうなんだけど、感性で自分にとっての良し悪しを決めるものは、コロンブスのタマゴのようにいつだって作者あっての作品なのか…作品あっての作者なのかの問答がつきまとう。
面白いもんで、自然の中にある美しさや強さと言った芸術はその被写体自体が作者であって、そのままそれがアートになる。
だから、もしかしたらアートって言うのは作ろうという意思で作るものじゃないのかもね。
一般展示をひと通りまわり、いよいよ有料会場へ行くのだけど、その時点でも、入場料取られるんだからそれなりに見応えあるんやろうな…ぐらいな感じ。
イヴ・クラインなんぞ知る由もない。
まずは….青。
そして青。
次も青。
さらに青。
簡素に言ってしまうとコバルトブルー?
ははん。 この芸術家は青に拘りがあるんだな。
と、そんな感じで何気なく観覧を続けていたけど、奥さんの一言でグッと作品の中に捩じ込まれた。
「何何…? 1928年〜1962年没… え? 34歳で亡くなっとるよ? なんで!?…」
ヒストリーの内容では自分の作品が、1962年のグァルティエロ・ヤコペティ監督の映画「世界残酷物語」に使われる事になったのだが、その使われ方が自分の意思とは違った(もしくは報告無しに一方的に監督サイドから変更させられていた)事に憤怒し、その際(試写会場で)に心臓発作で亡くなった…との事だった。
…マジか。
確かに芸術家なるもの喜怒哀楽の上下が尋常的ではないのはまあまああるケースだけど、そこまで極度の慷概憤激具合はよっぽどの繊細奇人な人だったのだろう。
そう感じた瞬間にガン!とイヴクラインのアートが自分の中に捩り込んで来て、そこにある作品ひとつひとつに釘付けになってしまった。
「不確かさと非物質的なるもの」…。
イヴクラインの一貫したテーマで、一言で表すと「空虚」で、個人的解釈は「何も無い事の中には全てがある」といった風に僕は解釈した。
それが形になったのが、「IKB」…インターナショナルクラインブルー。
あのイヴクラインの展示場に入ってから続け様に見た「青」なのだ。
クラインの思いでは空や海と言った空間の形なのだろうけど、結局それは表現できる術は何もなくて、クラインはそれは承知していながらも形にしたのがあの「青」なんだろう。
僕は山登りが好きで、よく晴れた空と頂きから見る景色を合わせた色を表現する時に、山岳ワードで言うところの「○○山ブルー」などと言うが、正にそれなんだと思う。
その青さは、語彙力ある無しとかじゃなくて表現できないんだよね。
敢えて言うなら…強いて言うなら…と言った二次的な表現しかできない。
自然が作る色っていうのはほとんどかそう。
そう思うとイヴクラインの作品がもの凄く間近に来た。
青は心の様を表現させた場合、凄くネガティブなカラーだし、また空や海に置き換えると凄くポジティブな色になる。
一時、釣りに傾倒していた時に、ルアーのカラーに拘りがあって、色々な色の知識を模索していた時に知ったんだけど、例えば「赤」「白」「黄」「黒」だったり、「金」「銀」…つまり青以外の色は水中に入るとその深度が深まるに連れて光に溶けこんで各々の色が消えてしまうけど、青はずっとその青を保ち続けるって知った。
意外だった。
水の青…言ったら空が作り出した水の青の中に青を入れたら1番最初に溶け込みそうだけど実はそうじゃなくて、1番最後まで色が残るのが青。
それらの「青」に拘ったイヴクライン。
厳密に言うと、青に拘ったというか、結果的に青になった…が正しいのか?
帰ってから、なんかそんな事を考えていると、物凄くイヴ・クラインという芸術家に興味が湧いた。
余談だが、「世界残酷物語」を観た。
確かに、冒頭でIKBに塗られたマネキンが写し出され、その際にクラッシックというかジャズ的な曲は掛かっていたが、その映画自体そもそもなのである。笑。
映画の終盤に、有名な裸体の女性数人が身体全体にIKBカラーを塗りたくり、壁一面のキャンバスに所謂、魚拓ならぬ人拓を作るのだけど、そのシーンの字幕を見ているとどうもヤコペティのイヴクラインの芸術的解釈がズレているように僕は思った。
そもそも、イヴクライン自体、当時オカルトに傾倒していたためにその映画に協力する事になったらしいが、その映画そもそもがそもそもだった。笑。
原題は「モンドケイン」。米題では「ドックスワールド」。
それらのタイトルは内容と合わせるとなんとなくわからんでもない。
が、
邦題の世界残酷物語は映画の内容的にはおかしい。
いずれにしてもこの映画はクソカルトムービーで、どうでもいい映画だよね。笑。